Kaitoy’s blog

中の人は学生。主に政治ネタ、時事ネタ、歴史ネタなどジャンルを問わず自由に書いてます。政治的立場は保守自由主義、大衆主義、反共主義、反知性主義。最近は非マルキストの立場から共産主義を研究しています。皇室をいただく日本の伝統と文化を守りたい。日々が人格陶冶。

人種差別と闘った我々の先人

今、アメリカでは黒人のジョージ・フロイド氏が白人の警察官に窒息死させられたことを契機に、全米各地で暴動にまで発展している。

この事件が黒人への人種差別にもとづくものだったかはいささか不明だが、アメリカ社会の闇が一気に武漢コロナウイルスによる鬱憤と相まって噴出したと言えるだろう。この事件についてはまた改めて書こうと思う。

そこで、今回は「我々の先人がいかに人種差別と闘ったか」を、「人種差別撤廃条項」「満洲国」「ユダヤ人」の観点から紹介したい。

 

 

国際連盟で「人種差別撤廃」を提起〉

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画像: 国際連盟委員会の様子

 

第一次世界大戦直後の1919年(大正八年)、パリで講和会議が開催された。アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリアの五大国が参加し、ここでヴェルサイユ条約が締結された。この会議ではさらに、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領が第一次大戦の反省から世界平和実現のために、「国際連盟」の創設を提案したことは周知のことだろう。

だがここで日本は人類の歴史上、当時としては画期的な提案をする。その「提案」とは、国際連盟の規約に「人種差別の撤廃」を盛り込むことだった。人種平等の原則の確立なしでは、国際連盟が国際平和機構として十分にその能力を発揮できないという趣旨からだった。これ以前に、国際会議の場で、人種差別撤廃を明確に主張した国などない。当時はまだ、欧米列強がこぞって植民地で好き放題に搾取し、黒人の人権も全く擁護されていなかった時代である。とくに20世期前半は「黄禍論」(黄色人種が禍いを生む)がひたすら謳歌され、帝政ロシア最後の皇帝、ニコライ2世も日本人を「マカーキ」(猿)と呼んで侮っていた。風刺画上で描写される日本人も必ず「出っ歯とメガネ」であるように、偏見と差別丸出しである。

話を国際連盟創設に戻すと、日本は何度も協議を要請し、この条項の成立を目指した。投票の結果、賛成が51、反対が5、と圧倒的多数で可決かと思われた。しかし議長国のアメリカは、「全会一致」を強く主張し、結局は人類史上初の「人種差別撤廃条項」は盛り込まれることなく葬り去られた。当時のアメリカは、自国内の黒人に公民権を付与せず、人種隔離政策をとっていたことから、この提案に反対したとされる。これは国際連盟の理念がいかに欺瞞で、いかに白人至上主義の機関であることを宣言したに等しい。

だが、このことが日本の、いや世界の人類の歴史上に刻印される出来事であったことは紛れもない事実であった。

 

 

満洲国は「多民族共生」を体現したユートピア

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画像: 満洲国ポスター

 

満洲国」と聞けば、「侵略戦争」の典型とみなす人も多いかもしれない。とくに学校で教わる自虐史観を鵜呑みにしていれば尚更のことだろう。だが満洲国の様相は我々が学校で教わるそれとは全く異なる。

1932年(昭和7年)3月1日、満洲国は中華民国から分離され建国。もともと満洲は古来、漢民族が支配したことは一切なく、万里の長城よりも北は「化外の地」と見做していた。満洲女真族が支配する地域であり、その女真族が北京を征服して建てたのが清帝国である。その清朝孫文辛亥革命により崩壊し、中華民国臨時政府が南京に置かれた。だが中華民国政府の体制は盤石なものではなく、その支配は限定的で、地方軍閥が群雄割拠する状態であったため、満洲中華民国の実効支配下ではなかった。

いずれにせよ、満洲国の国家元首には、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が就任。そして、満洲国は満洲民族と漢民族、蒙古民族(モンゴル人)からなる「満洲人」(満人)による民族自決の原則に基づく国民国家とした。建国理念としては、「満洲人、漢人朝鮮人、蒙古人、日本人」による「五族協和」が掲げられ、多くのアジア人が共存共栄する「王道楽土」が満洲国の実態であった。満洲国建国時の人口は2928万人で、1942年には4424万人に増加。このうち日本人は70万〜80万人ほどで、多くの民族が暮らす多民族国家だったことが分かる。さらに、前出の「五族」以外にも、ロシア革命後に逃れてきたロシア人や、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人なども受け入れていた。後述するが、ユダヤ人は歴史的にも多くの迫害を受け、差別されてきた人種であるが、日本にはいわゆる「ユダヤ差別」の概念は皆無だった。

満洲国は人種の壁を超えた多民族・多文化国家を体現する、ある意味「ユートピア」であった。そこに人種差別の概念があればこのような国家は絶対に存在し得なかったであろう。

 

 

ユダヤ人を救った先人〉

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画像:樋口季一郎

 

世界的には未だにユダヤ人差別は根強い。それはユダヤ教ユダヤ陰謀論イスラエルに基づくものなど様々だ。

ユダヤ人への迫害で最も記憶に新しいのは、ナチスによって行われた「ホロコースト」だろう。

日本はこれにどう対処したのだろうか?

ユダヤ人を救った日本人で有名なのは 在リトアニア日本領事館に勤めていた杉原千畝だ。杉原千畝によるユダヤ人救出劇は多少誇張気味ではあるが、あまりにも有名なためここでは割愛する。

さて、日本は1936年(昭和11年)に「日独防共協定」、1940年(昭和15年)に「日独伊三国同盟」を締結し、ナチス・ドイツとの連携を図った。このナチスとの同盟は決定的な過ちでしかないが、日本はナチスによるユダヤ人迫害には手を貸さなかった。それどころか、当時の日本は「国策」としてユダヤ人を救った唯一の国であった。一方、他の欧米諸国は、ホロコーストに苦しむユダヤ人を助けるどころか、積極的に差別していたのである。あの自動車王ヘンリー・フォードも狂信的な反ユダヤ主義者で、ヒトラーの考えに同調し資金提供まで行っていた。

1938年(昭和13年)3月、リトアニアポーランドからシベリア鉄道経由で迫害から逃れたユダヤ人が、満洲国境に押し寄せていた。彼らはその先の上海のアメリカ租界を目指していた。しかし、ルート途中にある満洲国の外交部が旅券を発行しないため、足止めを余儀なくされていた。それを知った関東軍樋口季一郎少将(当時)はユダヤ人に食料や医療品を支給し、上海租界へ移動できるように便宜を図った。この「ヒグチルート」と呼ばれるルートを使って救われたユダヤ人は約4000~5000人にのぼるとされる。一部は日本にも移送され保護された。もともと彼らはビザを持たないため、本来なら満洲国にも入国できないが、彼らの入国を許可することはドイツとの同盟に影響を及ぼしかねないことだった。だが、樋口少将は以前からナチスによる不当なユダヤ人弾圧には断固許さないという姿勢で、ユダヤ人救出を断行。

案の定、日本政府はこの件に関してドイツ外務省から抗議を受けたが、東條英機は「当然なる人道上の配慮である」とし、その抗議をひと蹴りしたのである。また当時の板垣征四郎陸軍大臣も、「我国は八紘一宇(はっこういちう)の国である。ユダヤ人だからといって特定民族を差別することはできない」と述べた。ちなみにこの時、樋口少将から依頼され列車を手配し、ユダヤ人を移送したのは、満鉄総裁の松岡洋介でもあった。

同年12月には、内閣総理大臣陸軍大臣海軍大臣外務大臣、大蔵大臣が集う最高位の国策検討機関「五相会議」で、「ユダヤ人対策綱領」が決定されている。日本が長年主張してきた「人種平等の精神」に基づいて、ユダヤ人を平等に扱うことを「国策」として決めたのである。さらにこの綱領をもとに、迫害から逃れたユダヤ人を満洲国に移住させる計画(河豚計画)も政府の方針として定められた。

 

 

今回のコラムでは主に三つの先例から、先人がどのようにして「人種差別」と闘ってきたかを紹介した。当時の日本はアジア初、有色人種で初の近代国家でもあった。日露戦争では白人帝政のロシアに勝利し、欧米列強の植民地下にあった有色人種に勇気と希望を与えた。そして我々の先人は有色人種であるが故に、人種差別に堂々と抗議し、人種差別を撲滅する責務を全うしようとしていたのである。

今一度、歴史の中に埋れた数々の出来事を掘り起こす価値があるのではなかろうか。